📖美学No.62《銀座に生きる》

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鈴木真砂女 著

鈴木真砂女(まさじょ)は俳人である。明治39年、千葉県鴨川の老舗旅館『吉田屋』の三女として生まれる。22歳で日本橋横山町にある靴問屋の次男と恋愛結婚し一女をもうける。結婚7年目で夫が花札賭博による借金で突然失踪。3歳の娘を婚家に置き、一人実家に戻る。『吉田屋』の女将であった姉が肺炎で急逝。両親に説き伏せられ、姉の夫と結婚して女将となり、遺児4人の子の母ともなる。真砂女28歳のときである。この姉が少女の頃から俳句を作っていた。遺句集作りがきっかけで句作を始める。

「夫を持たない者が丸髷でもない、ましてや28歳では桃割れも結えない」と、銀杏返しに結っていた。この髪は、独身の年増や仲居さんが結う粋な日本髪で、宿の帳場にいると芸妓と間違われることもあったという。女将仕事は彼女に合っていたが、婚家においてきた娘にも逢えず、兄と呼んでいた人が我が夫となる……無理のある束縛の多い窮屈な生活であった。

32歳のときに旅館に宿泊した妻子ある年下の海軍士官と恋に落ち、出征する彼を追って出奔。家に戻るも夫婦の溝は埋まらず、50歳で正式に離婚、家を出る。銀座1丁目に小料理屋『卯波』を開店。作家の丹羽文雄と知人3名から借金をしての開店だった。「どうせ店を出すのなら日本一の場所がよかった」50歳での人生の再起は、なみなみならぬ決意があったことだろう。《わが路地の帯のごとしや暮の春》のれんに染め抜いた一句は、安住の地を見つけた真砂女の思い。

カウンター9席と座敷2部屋だけの小さな店は、川端康成、安岡章太郎らの作家にも愛され、「俳句と店とどっちをとるかと聞かれたら、迷わず店をとる」と語るほど店をこよなく愛し、96歳で亡くなる数年前まで切り盛りしていた。

瀬戸内寂聴が初めて真砂女に出逢ったときのことを『奇縁まんだら』で書いている。《白い絣の羅に夏帯を締めた粋な小柄な女の人が、ちょこんと座っていた。髪をかきあげてきりりと首の後ろに束ねた顔にめがねのあるのが不思議なほど、古典的な美人だった。素人とは違う色気が滲み出ているが、それさえ涼しそうなその人の雰囲気を崩していない。》寂聴は彼女をモデルにして『いよよ華やぐ』を書き、丹羽文雄も『天衣無縫』で書いている。才ある作家がほっておかない鈴木真砂女が生きていた。波瀾万丈の人生の最後に辿り着いた心持ちを、俳句が語る。こうなれたらいいなぁと「明治の女」を思う。

今生のいまが倖せ衣被  

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