🎼美学No.53《フラワー・トラベリン・バンド》

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1970年にデビューしたジャパニーズロックの金字塔。ボーカルはジョー山中、そしてプロデューサーは内田裕也。カナダへ渡りライブの実績を積んで、アメリカのアトランティックレコードと契約、アルバム『SATORI』を発表。シングル・カットされた『SATORI Part2』はカナダのチャートに入る。和太鼓を思わせるドラムから始まり、スライドギター、そこに加わるジョー山中の伸びのある高音!!痺れる!!東洋的な旋律とジョー山中の声という武器を持って、海外進出の先駆者となったが、日本では、かぐや姫・オフコース・吉田拓郎・赤い鳥・はっぴいえんど等がデビューし、まさにフォークブーム全盛だった。

1969年、第1回日本ロックフェスティバルが開催。それを内田裕也がさらに大規模化、海外からも有名アーティストを呼び、全国ツアーした「ワールド・ロック・フェスティバル」。1975年、その公演で初めてフラワー・トラベリン・バンドの生を聴いた。「輸入一辺倒の日本音楽界に日本人によるロックの実力を内外に訴える」という主旨。ロックの狼煙をあげた彼は、樹木希林の夫でやんちゃなお爺さん……というだけではなく、日本ロック界を牽引する熱いプロデューサーだったのだ。

2011年、ジョー山中が亡くなった。アフリカ系米兵らしい父の顔も知らず、日本人の母は亡くなり、16歳まで養護施設を転々とした。中学卒業後、自動車修理工場で働いていた時に、喧嘩の強さを伝え聞いた金平ジムにスカウトされプロボクサーになる。その後、内田裕也と出逢い、運命は変わった。3オクターブの歌声が水を得たのだ。

《デヴィッド・ボウイが、今世界で最も興味のあるシンガーは誰かという質問に、彼はこう言いました。「日本のロックシンガー、ジョー山中」僕はそれを読んだときにとても興奮して、一緒に苦労したカナダやニューヨーク、ロサンゼルス、いろんな苦しい思いがふっとんでしまいました。彼は、1990年代からNGO団体と一緒に世界中の子供たちに、いろんな援助物資を届けに行きました。その数、全22ヶ国。そして、1994年、私も一緒にアフガニスタンの地を訪れ、彼はそこで「To The New World」を子供たちの前で歌い、子供たちも国境を超えて手拍子で答えてくれました。僕はこの男と会ってよかったと、心から痛感しました。》内田裕也の弔辞は、二人の友情と信頼を物語る。

不良でならしたやんちゃなロッカーも、年を経て世界の子供達のために歌を歌う。大人になるのもまんざら悪くない。

 

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