🎨美学No.111《ジャポニスム》

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西洋における『日本』の流行……それは『ジャポニスム』と呼ばれ、歴史に大きな足跡を残した。1639年の日本は中国とオランダのみ交易を許し鎖国。1858年、西洋に門を開く。200年余りの長い年月、他国に影響されず純粋培養された文化芸術は、一気にヨーロッパを『日本』の海に巻き込んだ。

19世紀後半の西洋、ブルジョワ達が熱中したのは、思い出の品や愛好する品などを取り混ぜ、個人の趣味で部屋を飾ることだった。壁に飾られた団扇は、扇と共に開国以前から中国経由で大量に輸出され、1907年には3000万本に至った。着物は『ドレッシングガウン』として愛用され、あたかも異国の絵画を纏っているような気分になったことだろう。着物を解いて作ったドレスや、日本の文様をあしらった生地、アシメトリーの図柄など、パリモードに大きな影響を与えた。

私が初めて大量の浮世絵を観たのは短期留学していたロンドンの美術館。授業のあと、日々美術館巡りをして洋画の世界にとっぷり浸っていた私は驚いた。雨を表す黒い線、遠い景色が画面の上にあり、時空を超えた独特の構図、デフォルメされたバランス……自由で大胆な描写は、日本人である私がジャポニスムの洗礼を受けた気分だった。

彫刻家カミーユ・クローデルも日本美術に影響された一人。ジャポニスムの先駆者エドモン・ド・ゴンクールは、1884年の日記に書いている。「ロダンの弟子、クローデル嬢は大輪の日本の花を刺繍した麻の袖なし胴着を着て……」これを読んだとき、カミーユが!と小躍りした。彼女は、葛飾北斎『冨嶽三十六景  神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受け『波』を制作。その頃、彼女と交際していた作曲家ドビュッシーも交響曲『海』を作曲し、楽譜の表紙に『 神奈川沖浪裏』を使っている。

西洋と日本の架け橋、ジャポニスムの立役者が林忠正という人物。1878年、通訳としてパリ万博に参加。印象派の画家達や文化人との交流が始まり、万博後もパリに残って貴重な存在となった。1903年、カミーユ・クローデルは彼に手紙を書いている。『波』を鋳造する資金のお礼だ。彼は、金銭的に追い詰められたカミーユに手を差し伸べていたのだ。もし、着物地の服を着たカミーユとドビュッシーが北斎を一緒に観ていたら……想像は膨らみ、「日本に憧れていたカミーユ」という事実は、私と彼女の距離を縮めた。日本人である私が19世紀末に生きたフランス女性を書く。『ジャポニスム』の蒔いた種が、21世紀の日本で小さく花咲いたような気がしてならない。

 

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