🎨美学No.107《ロダンと花子》

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身長136cm、体重30kgの小さな身体。本名・太田ひさ、芸名・花子は、彫刻家オーギュスト・ロダンを魅了し、モデルをつとめた女性。「プティット・アナコ(小さな花子)」と愛称で呼ばれ、晩年のロダン夫妻に家族のように愛された。

1868年生まれ、5歳より日本舞踊や三味線を習う。10歳のとき、養女に出された家の困窮で女芝居の一座に加わり、旅から旅への子供時代を過ごす。妓楼に舞子として売られ、16歳の時には一人前の芸者になっていた。まもなく花子は身請けされるが、20歳年上の相手とは諍いが絶えず、10年連れ添って実家に戻る。別れ話の仲裁役の男と恋仲になるが、男は親元へ呼び戻され、花子は独りになる。1902年「コペンハーゲンの博覧会で踊り子募集」を知り、33歳でヨーロッパに渡航。旅芝居の女優として欧米を巡業し、大人気となった。

モダン・ダンスの旗手で興行師でもあったロイ・フラーは、1905年にロンドンで花子の芝居を観て、一座を抱えたいと申し入れる。「太田ひさ」を「花子」と命名、条件として花子を花形に据え、出し物としては必ず「ハラキリ」の場面を入れるよう提案。これは、川上音二郎・貞奴一座のヨーロッパ巡業を興行したフラーが、日本流に演じられる死の場面が、観客の興味を引くことを熟知していたからである。この出会いが、花子をロダンと結びつける。

「傷ついた鳥のような鳴き声で身を震わせ、かすかな叫び声をあげる。身体は石のように動かないまま、すすり泣き、突然絶叫の声が長く響き、最後にため息となり、一瞬目を大きく見開き、強烈な生命力を伝えてがっくりとのけぞる。ゾッとするような迫力。」ロイ・フラーは花子一人に目が釘付けになった。

1906年、ロダンはマルセイユの公演で花子を観る。悶死する断末魔の表情に強い衝撃を受け『死の首』を制作。花子は巡業の合間にロダンのアトリエを訪れてモデルを務め、5年間で制作された彫刻は約58点に及んだ。

「毎日毎日、舞台でやる通り、眼を寄せて顔をしかめたところのモデルをするので本当に困ってしまいました。何処へ行っても、この頃眼が変ですね、と言われる程でした。ロダンさんは、折角よく出来た眼の玉へ棒をぎゅっと刺して、くるくると廻して壊してしまって、『また明日』と仰有るのです。とうとう出来上ったら、それはそれは喜んで、部屋を暗くして蝋燭を沢山おつけになって、その真ん中に首を置いて、奥さんもお呼びになって、お祝をなさいました。」

『死の首』は死んだ顔ではない。可憐な日本人形から発する生命のエネルギー、それは神秘な官能をロダンにもたらした。単身ヨーロッパへ渡り、芸道によって道を開いた花子は、天と地を見渡す睨みで世界に見得を切ったのだ。

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