🎨美学No.104《佐伯祐三》

By waltzblog No comments

パリのモンパルナス、それは30年の短い生涯だった画家・佐伯祐三にとって運命の場所だった。

大阪にある寺の次男として1898年に生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)で画家・藤島武二に師事。足の不自由な画学生・米子と在学中に結婚、2年後に娘・弥智子が生まれ、1924年1月、家族と共に憧れのパリに到着。その年の初夏、フォービスムの巨匠ヴラマンクのアトリエを訪ね、作品を見せた。「アカデミック!」巨匠は一喝。ショックを受けた佐伯は、表現方法を模索し始める。

1926年1月、結核による体調不良で日本に帰国。母国での制作は満足する出来ではなく、1927年8月に再渡仏。約4ヶ月で107枚の絵を描き、後に傑作と呼ばれる作品が次々に生まれた。1928年3月頃より持病の結核が悪化、精神面でも不安定となり、セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。同年8月16日、死去。2週間後に娘・弥智子も亡くなった。

夫と娘をほぼ同時に亡くした妻の気持ちはいかばかりか……と、彼女のことを調べると驚くべきことが発覚。「米子は佐伯の作品に加筆をしていた。ガス栓を開いて夫と娘の殺害を図り、更に、ヒ素で殺害しようとした。娘は祐三の兄の子であり、佐伯の後輩・荻須高徳とも関係を持っていた」というものである。

1927年10月、モンパルナス162番地のアパート3階に移る。2階には大富豪の著作家・薩摩治郎八の妻・千代子が住んでいた。佐伯は彼女にプラトニックな想いを抱き、これが佐伯家の狂気の引き金になる。

12月、部屋のガス事故により、佐伯と彌智子は入院。大使館員の調査に対して、「アタクシの不注意です」と米子は言った。「あれは事故ではありません。米子さんがガスの栓を開きに行ったのを見ました。不思議に思いますが恐ろしいとは思いませんでした」と佐伯は語る。

1928年2月、佐伯は家族、友人らと田舎モランへ。超人的情熱で絵を描く。3月15日、佐伯は米子に離婚を言い渡す。「米子さんからタブローのことを口出しされないためです。俺の仕事、命のためです。」と薩摩千代子への置き手紙。体調が急変。知覚障害、視力障害、吐血、しびれ、譫妄状態など、ヒ素中毒の症状が見られた。5月中旬、風邪がもとで身体は衰弱、急に発狂状態に陥った。6月20日、クラマールの森で自殺未遂。6月23日、精神病院へ入院。その時の記録に「被害妄想の兆候も顕著」とある。食事を拒否し、点滴だけで命を繋ぐ。8月15日、夜通し泣き続ける佐伯がいた。翌16日、誰にも看取られず、たった一人で佐伯は逝った。

虫1匹も殺さない殺生嫌い、ヴァイオリンを愛し、友情に厚く、自作にはいつも辛口の評価。真実を追求しても答えは出ない。佐伯祐三が背負った人生全てが、絵に存在する。そこに、画家の運命を見るしかない。貪るように絵を描いた佐伯の純粋は、やはり重たい扉を開けたのだと思う。

 

 

コメントを残す