📖美学No.101《林芙美子と緑敏》

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『貧乏を売り物にする素人小説家』『半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』『軍国主義を囃し立てた政府お抱え小説家』……文壇に登場してから戦中まで、林芙美子についたレッテルは、新しいことを成す作家に与えられた勲章のようなものかもしれない。7歳から、養父・実母と共に行商を営みながら木賃宿に泊まり、日本の各地を放浪する赤貧の日々。女工、売り子、カフェの女給など職を転々とし、底辺の暮らしから湧き出た言葉は、辛い現実を生き抜く術を私に教えてくれた。

初恋の相手とは、芙美子が結婚を願って上京し同棲するも婚約を取り消され、わずか半年で破局。詩人二人との同棲を経て、大正15年、23歳の時に画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)と内縁の結婚。

昭和5年、『放浪記』がベストセラーとなり、翌年その印税で一人パリに向かったのは、恋人・外山五郎を追ってのことだった。「棄てられるに決まっている」緑敏は引きとめたが芙美子は耳を貸さなかった。パリへの思いを語る芙美子を見て、あるゆる伝手を頼り、思い通りにパリで暮らせるよう手はずを整える緑敏。パリでの生活は、考古学者・森本六爾と出会い、外山の存在は芙美子から消え、建築家・白井晟一との出会いは芙美子の恋心をかきたてる。

「写真かしてもよろしい。金をきちんと取んなさい。でないと、美しい写真も送れない。そこから毎月君の生活費位出せるといいんだが」芙美子がパリから緑敏に出した手紙は、まるで夫から妻に宛てたよう。生活の主導権は芙美子にあった。「うんと勉強する」「うんと仕事をする」緑敏に繰り返し書くことで自らを奮い立たせ、「骨のある仕事をしてください」「人間は気が小さくなってはいけない」と緑敏を叱咤もする。そして、「飛びつきたい程あいたい」「君の手紙を見て泣いちゃった」「リョクさんが恋ひしい」と甘える。

ある日、二人で絵を描く。緑敏は、執筆中に一瞬、顔をあげた芙美子を。芙美子は、自由な筆使いと色彩のデフォルメされた自画像。生真面目な緑敏と奔放な芙美子がはっきり表れている絵。画展に入選しても、売れる画家にはなりそうもない……緑敏は自分を見極め、絵に見切りをつける。マネージャー兼秘書役に徹し、裏方に回る。そして思う存分、芙美子は執筆に没頭する。

昭和16年、二人の「終の住処」となった自宅を下落合に新築。昭和18年、養子を迎えると同時に、緑敏は芙美子の籍に入籍、林緑敏となる。そして昭和26年、芙美子は心臓麻痺で急逝。原稿の売り込みに苦労した芙美子は、人気作家になっても執筆依頼を断らず、書きに書き、作家としての人生を駆け抜けた。47年の生涯は、波乱万丈で濃密であった。

芙美子が亡くなると、緑敏は薔薇の栽培に打ち込んだ。「緑敏氏の薔薇でなくては描く気がしない」と、画家・梅原龍三郎や中川一政など、数多くの画家達が集った。画家として名を成さなかった緑敏の薔薇が、著名な画家の名作を生み出した。慈しみ、育てる……芙美子の才能を開花させた緑敏は、薔薇の棘さえ愛おしかったのだろう。

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