☕️美学No.100《憩いの場所》
このエリアに行ったら、ここ……という決まった場所があった。青山は「大坊珈琲店」、渋谷は「ドゥ マゴ パリ」、銀座は「ウエスト」。今では1軒しか残っていない。時の移ろいに寂しい思いを抱いているのは、私だけではないだろう。
大坊珈琲店は1975年から2013年まで営業。青山通り沿いのビルの2階にあり、扉を開けると珈琲の芳しい香りが全身を包む。静かにジャズが流れ、カウンターに座ると、ご主人のハンドドリップが見られる。手廻し焙煎器による自家焙煎、右手のポットは動かさず、左手に持ったネルフィルターを動かし手首を回す。中心から弧を描き、ゆっくりと丁寧に注がれたお湯は糸のように細く、まるで茶道のような美しい所作。濃い深煎りだが甘味ある珈琲に、時が止まる。
「ドゥ マゴ パリ」は、1884年にオープンしたパリの老舗カフェ「ドゥ マゴ」唯一の海外業務提携店として、Bunkamura開館時から地下1階で営業。店内は19世紀のパリを思わせる内装。が、私はもっぱら施設中央の吹き抜け空間にあるテラス席を愛用していた。「ル・シネマ」で映画を観た後や、渋谷の雑踏を歩いた後は、必ずここに立ち寄った。丸いトレーにのせられたポットとコーヒーカップ、カチャカチャとなる音も可愛かった。ここに座ると、好きなものを思い出し、好きな自分を取り戻せた。
「ウエスト」は1947 年創業の洋菓子&喫茶店。クラシック音楽が流れ、パリッとした白いテーブルクロスと椅子カバー、そして、白シャツに黒ベストとタイトスカートという制服のウェイトレス。全てが清潔感に溢れている。ココア色の低いソファー椅子は特注品で、座るとしっくり落ち着ける。木にとまった小鳥達に、裸の子供が歌の指揮をしている図柄のロゴマークが愛おしい。全てに行き届いた店内は、好きでいいよではなく、こういう風に過ごしたら心地よいよと提案してくれる。
テーブル脇に置いてある「風の詩」は創業時より続いている小冊子。お客の投稿した散文、随筆、詩など毎週一編が掲載される。昭和、平成、令和と「ウエスト」を愛する人たちの生きた声がここにある。ある日、父がニヤニヤして、開封された封筒を私に差し出した。封筒には「ウエスト」のロゴマーク!なんと、知らぬ間に「風の詩」に投稿、その掲載通知だった。早速、家族揃ってお店に行き、改めて「風の詩」を手に取り、父の随筆を読んだ。木製のトレーに盛られた美味しいケーキと珈琲は、勿論、ご満悦の父のご馳走。
憩いの場所は、丁寧に時を感じさせる。そして、その思い出は、人を優しく笑顔にする。