🎨美学No.93《藤田嗣治》

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「日本に居ては時間の邪魔多く本当の勉強は出来ず、世間のために使はれて利用され、そのまま棄てられてその繰りかへしのみであって、その間に人の策動にかけられ嫉妬の集中に悩まされ、迫害多くして何等の足しになる事等はなく……」

1955年フランスに帰化し、レオナール・フジタLéonard Foujitaとなった藤田嗣治。「日本生まれのフランス画家」と記載されることは、日本人としてとても残念なことだ。が、藤田の人生を考えると納得せざるを得ない。

「線のしなやかな唐草模様によって暗示されるアングルの明暗法なしのレリーフ」と評論家ティエポール・スイッソンは言う。的確で精密なデッサン、日本画の面相筆を使った繊細で流麗な線、独自の技法で陶器のようなマチエールを創った「乳白色の肌」は、それまでの洋画にはない斬新で不思議な魅力でパリ画壇が絶賛。エコール・ド・パリの寵児となった。1929年の自画像に面相筆と墨と硯が描かれている。「どうだい。君達には真似できないだろ?」と、制作の秘密を誇らしげに語りかけているようだ。

おかっぱ頭にロイド眼鏡、チョビ髭の藤田は「宣伝屋」と揶揄された。だが、パリで無名の日本人画家としては、自らが広告塔になる戦略が必要だっただろう。それを可能にしたのは、手先の器用さと卓越したファッションセンス。晩年の藤田は、得意な裁縫だけでなく大工仕事や小物作りも楽しんだ。空き箱やガラス瓶にも細かな絵を描き込み、こだわりある「小さな芸術」は彼の身の回りを飾った。

パリでの成功後、日本美術界への凱旋は惨憺たる結果に終わった。そもそも日本を飛び出したのも、印象派や写実主義中心の日本画壇に居場所がなかったからでもある。文展などでは全て落選。藤田の自由な感性は、封建的な日本ではそぐわなかった。

太平洋戦争に突入し、「絵画が直接お国に役立つということは、なんという果報な事であろう。」と戦地を訪問し、戦争画を描いた。この思いは終戦後、「戦争協力者」と批判されることになる。再びパリを目指すも入国の許可が下りず、ニューヨークへ。有名な『カフェ』は、そこで着想を得た作品。物思いにふける女性は、エコール・ド・パリを懐かしむ藤田自身なのかもしれない。

藤田の「黒」は美しい。東京美術学校時代、「黒」を忌み嫌った西洋画科主任の黒田清輝は、〈悪い絵の例〉として藤田の絵を皆の前に晒した。モダニストとしての黒はパリで命を宿したのだ。

1964年、78歳の藤田は語る。「一人の口から漏れて何千の人の耳に伝わってそれが広まっても、0が何万集まっても0に過ぎず、一の方が強い。」

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