🎼美学No.76《憂歌団》
憂歌団は、1975年デビューの日本のブルースバンド。まずはバンド名に惚れた。リーダーの内田勘太郎は、大阪市立工芸高校の教室で、後ろの席に座った学友から声をかけられる。「自分、どんな中学から来たん?」それが、ボーカルとなった木村秀勝(のちに「充揮」と改名)。お互いギターを持っていることから合奏が始まり、同じ高校の島田和男がドラムとして加入、島田の友達・花岡献治が遊びに来て「ギター弾けるならベースも弾けるやろ」と、4人となる。バンド名が必要となり、内田は考えた。候補は二つ。一つは「まだまだ俺達未熟やから」ということで、プワーハンド・ブルースバンド。と、テレビに映された「エレジー(哀歌)」という言葉から、ブルースだったら「憂い」かな……で、憂歌団。良い命名だ。
高校卒業後、喫茶店での定期ライブ。ある日の観客は4人。その一人がトリオレコードのデイレクターだった。「で、レコード出さない?」と。「ま、記念に」と。そんな軽い気持ちで出したデビューシングル「おそうじオバチャン」は、デビュー1週間後に「放送禁止要注意歌謡曲Aランク」の指定を受ける。理由は「掃除婦に対して差別的な歌である」ということ。1959年に、日本民間放送連盟が「要注意歌謡曲指定制度」を発足させ、「要注意歌謡曲一覧表」という内部通達の文書作成したのだ。 ランクは3つあり、「A」は放送しない、「B」は歌詞はダメだがメロディーは放送しても大丈夫、「C」は不適切な個所を変えればOKというもの。この制度は1983年に廃止されたが、当時は、「禁止」という弾圧的な言葉で「悪いもの」というレッテルを貼ることがまかり通ったのだ。言論の自由は何処へ?!な恐るべき封建的制度。
このライブアルバム『生聞59分』は1977年に発表。ジャケットは、トレードマークのハンチングを被り、アメリカのブルースを日本の「憂歌=うれいうた」にした背中。小学校の頃からほとんど声変わりをしていないという、ブルースの神様から授かった「天使のダミ声」は、夢を抱き上京して数年、一人暮らしのアパートで膝を抱えるうら若き乙女(?!)にブルージーな気分を教えてくれた。
《シカゴに来て二年がたった だけどいい事ありゃしねぇ 街のかたすみで小さくなって ひとり暮らしてる》
1998年、憂歌団は無期限に活動休止。そして2013年、15年ぶりに木村と内田が『憂歌兄弟』という名前でフルアルバムをリリース。高校の同級生とバンドを組み、遊びの延長が本物になる……私が男だったらこんな生き方してみたい……と羨ましくなる。