📖美学No.74《ジョン・レノンが見た日本》
ジョン・レノン 絵 オノ・ヨーコ 序
「 ” ai ” は愛=eye」日の丸のような美しい装丁。ビートルズの魂、ジョン・レノンが遺した、絵を描いて日本語を覚えたスケッチブック。どういう目を持って日本を見ていたかが分かる。
美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたこともあって、ジョンは昔から日本や東洋文化に興味を持っていた。でも、日本が彼にとってかけがえのないものになったのは、やはりヨーコの存在だろう。
1966年、ロンドンで開催された『未完成の絵画とオブジェ』と題されたヨーコの個展。開催前日のプレビューに訪れたジョンは一つの作品に惹かれた。部屋の中央にある白い脚立を昇り、天井からぶら下がった虫眼鏡で天井に貼られた小さなキャンバスを見る……そこには「YES」と描かれてあった。
出逢って3年後に結婚。そして、世界中の誰もが知るカップル『ジョンとヨーコ』になる。新婚旅行先のホテルで『ベッド・イン』という平和を願うパフォーマンスを行う。当時アメリカはベトナム戦争のまっただ中。このハネムーンをマスコミに追いかけられるのを逆手にとって、平和を訴えるための宣伝にしようと考えた二人。この発表がされたとき、ほとんどの人々が公開セックスを予想したが、実際はベッド・インしているホテルの一室にマスコミを招き入れ、平和について語り合うというものだった。前衛芸術家であるヨーコと出逢って、ジョンも生来あるアーティスト魂に素直に行動できたのであろう。
幼年期、船乗りの父親は不在で母親は他の男性と同棲。伯母のもとで育てられ、後に父親は蒸発、18歳のときに母親も亡くす。ヨーコとの間に息子ショーンが生まれ、彼は育児に専念する主夫生活を5年間おくる。アーティストとしても一人の男性としても、確かな拠り所を持ったジョンにとって、日本は安らぎの場所であったのだろう。
meue no hito tachi 目上の人たち
mainichi umare kawarimasu 毎日生まれ変わります。
kiraku(desu) 気楽(です)。
1980年、私は新聞のラテ欄を編集する仕事をしていた。当時、内幸町のプレスセンタービル内にあり、広い部屋に沢山の机が並び、壁には終日キー局のテレビが映され、最新のニュースが入る電話は、いつも鳴りっぱなし……そんな職場。12月8日、休憩から戻ると、そこは一変していた。「ジョン・レノンが射殺された」最速で飛び込んできたニュースに、ビートルズ世代の上司達は、少年のような顔をして一様にうな垂れていた。
主夫生活を終え、音楽業界復帰となるアルバムは遺作となった。John Winston Ono Lennon、彼は日本の魂を持って天国に逝った。