📖美学No.43《葉桜の日》
鷺沢萠 著
「俺は、誰なんだ?」親を知らない19歳のジョージ《葉桜の日》と、横浜・中華街のバーで働く23歳の健次《果実の舟を川に流して》の二篇が収められている。ジョージは自分が誰の子で、何処で生まれたかを知らない。健次は母親を殺されている。共に、普通とは違う環境にあった。が、作品はそのことを重視するよりも、今を生きることが大事なんだと言っている。「真実(ほんとう)で生きなきゃ、どうすんのよ」養母にそう言われて育ったジョージ、女装のママがオーナーの「パパイヤボート」に集まる人々を見つめる健次、偏見を持たず、暗黙の了解を心得える二人の視線は優しい。それは、鷺沢萠が持っている目、他者を慈しむ、哀しみの観察眼だ。
鷺沢萠を夢中で読んでいた時期がある。そして、突然ストップしてしまった。それは、2004年、彼女が35歳で自ら命を絶ってしまったから。彼女の作品は、もう永遠に刊行されることはない。
鷺沢萠は18歳でデビューし、当時、史上最年少で文学界新人賞をとった。酒と煙草、麻雀と車が大好きで、小説や絵本の翻訳も手掛けた。《葉桜の日》《果実の舟を川に流して》とも、それぞれ芥川賞、三島賞の候補になる。主人公の青年のナイーブな心情、彼らのまわりに集まる人達の人生、彼女が大学生の時に書いたことに驚く。早熟というのは、辛いものだなぁと思う。人が60年、80年と、時間をかけて辿り着く人生観をすでに想像出来てしまう。死に向かうスピードも自ずと早くなってしまうのか……。
つい先日、彼女の作品を読み返していたら、「高校生のとき、ちょっと目を離すと自殺しそうだと思っていた」という文章があった。「読書は、その馬鹿げた欲望から救い出してくれる行為」だと。そして、高校生の自分に言葉をかける。「人生というのは、地雷がびっちり埋められた平原をひとりぽっちで歩いていくようなもの。命が、どれだけ大事か、そのうちきっと分かるはず。」彼女の生前に読んだときは、この文章がこんなに重たくはなかった。35歳の彼女に語りかける、もう一人の鷺沢萠が現れて欲しかった。
文学は、ずっと彼女に寄り添っていた。鷺沢萠の作品にある、生まれ持つ寂しさ、哀しみ。それを下敷きにして書くのが純文学かもしれない。作品は永遠だ。命の大切さを作品に込めたとしたら、それもまた、鷺沢萠の命なのだろう。彼女が救われたように、作品はきっと誰かを救っている。
春になれば裸木はまた新しい花を咲かせるのだ……貴女が書いた言葉を忘れない。