🎨美学No.36《草間彌生》
1960年代後半、裸の体に水玉を描いたり、ヒッピーの男女を全裸にして星条旗を焼いたり……ニューヨークでの草間彌生の「ハプニング」は、多いに話題になる。そこには、男女の性差別、資本主義への疑問、ベトナム戦争反対という強い思いが込められていた。小さな日本女性は、アメリカで「前衛芸術の女王」の地位を確固とした。
草間彌生は、松本の古本屋でアメリカのジョージア・オキーフの画集を見て、「この人が助けてくれるかもしれない」と、手紙を出す。オキーフから激励の返事が届き、それが1957年の渡米のきっかけになる。オキーフも私の好きな画家、彼女は一時メキシコのフリーダ・カーロと恋愛関係にあった。私の好きな女性芸術家達が、軽々と国境を越えて皆繋がっていたことに驚く。
人との関係が運命を切り開く。ましてや、パートナーの存在は大きい。オキーフには、写真家のアルフレッド・スティーグリッツ、カーロには画家のディエゴ・リベラ。草間彌生は、26歳年上のアッサンブラージュの作家ジョセフ・コーネルと、彼が亡くなるまで、親友のようなプラトニックな関係が続いた。男性芸術家にとって、パートナーの存在は創造の源「ミューズ」。果たして、女性芸術家にとってはどうだろう。「源」は、彼女達自身に在って、パートナーは「女性」であることを忘れないための「よき理解者」としての存在ではなかろうか。
草間は幼少期から、水玉が視界を覆う幻覚に悩まされていた。水玉を生命の象徴と捉え、それを描くことによって、自身も埋没し、恐怖から逃れる。「性交=暴力=男根」という図式があった彼女は、男根状の詰め物の突起を作り続けていくことで、恐怖を克服しようとする。彼女にとって芸術は、自己療法であり、信仰なのだ。
私はある仕事の依頼で、一度、草間のスタジオを訪ねた。赤い髪のおかっぱ頭、赤に白の水玉の服を着て私の前に対座すると、大きくこちらをぐっと見つめる目に驚かされる。力がある。小さな声で話す彼女は童女のようであった。しかし、あるデザイナーが私の真似をしていると話すときや、アルバムを見ながら1960年代のハプニングのことを話すときは、生き生きと有無を言わせぬ話し方になる。天才芸術家を目の当たりにして、一言でも聞き逃すまい見逃すまいと、私の目も大きく見開かれたままだった。おいとましようと席を立つと「ちょっと待って」と声をかけてくださる。しばらくすると自ら私の手に何かを握らせてくれた。手のひらを開くと赤いカボチャのキーホルダーがあった。