📖美学No.33《向田邦子の恋文》
向田和子 著
『父の詫び状』『眠る盃』『無名仮名人名簿』『思い出トランプ』『あ・うん』『隣の女』『夜中の薔薇』『女の人差し指』『男どき女どき』……私の本棚に並ぶ背表紙を見るだけで、昭和に生きた男や女、そして家族の姿が浮かぶ。何回も読み返している彼女のエッセイや小説は、何かほのぼのと、心がぽっとする。
美味しいものに目がない邦子は、料理上手でもあった。この本の著者である妹の和子に、赤坂で小料理屋『ままや』を開店させたりした。私も『向田邦子の手料理』という本にあるレシピで、何度もお薦め料理を作って堪能した。映画雑誌の編集者を経て放送作家になり、「昭和日本」のラジオやテレビドラマで数々の傑作を生み出した向田邦子は、1981年51歳で突然亡くなった。
籐椅子にゆったり座り、窓から外の景色を見ている。1枚の皿にフォークが二つ同じ方向を向いて並べてあるのは、それに盛られた和菓子を食べたあとだろうか。そして、二つの茶碗。楽しみにしていた二人旅……きりりとした眼差しの邦子を撮っているのが、もうひとつの茶碗の主である。彼女が20代の初めに出逢い、13歳年上で妻子がいた記録映画のカメラマンN氏との恋は” 秘め事 ”だった。彼が撮る邦子は美しい。「ほら、どう?」と、レンズをのぞく彼に語っているようだ。
向田邦子が亡くなり20年たった春、妹・和子は 遺品の中にあった茶封筒を開ける。そこにはN氏に宛てた邦子の手紙5通、電報1通、N氏から邦子に宛てた手紙3通、N氏の日記、手帳2冊が入っていた。この手紙が書かれた当時33〜4歳の邦子は、数々の人気番組の脚本を執筆、ホテルにカン詰め、徹夜続きで、印刷所・テレビ局・ラジオ局と忙しい日々の中にいた。そして一方N氏は、40代半ばで脳卒中で倒れ、脚が不自由になり仕事ができなくなっていた。妻子とは別居中で、母親宅の離れに一人暮らしだった。
N氏の日記には、まず邦子脚本の番組感想、そして食事内容・身体の具合・その日使ったお金などが淡々と書かれている。出逢ったときは社会人になりたての邦子が、自分の夢を実現し、生き生きと働いている姿は、N氏には眩しく映ったことだろう。離れた時期もあったようだが、秘めた恋は10年という月日がたち、二人の手紙は、お互い「全て分かっているよ」という思いやりと優しさに満ちている。
「そちら、お具合はいかが? あんまりカンシャクを起こさないで、のんびりとやって下さい。ガス・ストーブ、早くお買いになってね。……手足を冷やさないように。バイバイ」邦子からN氏へ
「シチューいい味でした。……今週中はたっぷりあたたかい食事が出来そうですから安心していい仕事をして下さい。……毎日電話はするつもり。風邪には重々気をつけること、食いすぎないように !!」N氏から邦子へ
「寒さがこたえているようですが、なんとか頑張って下さいな。ムリして、電話なんかかけに出ないように。手袋を忘れないように。」邦子からN氏へ
「”いやだなァ ブウブウ……”と ふくれていることと思います。……思い直して仕事にかかられよ!!見込まれた小羊よ。」N氏から邦子へ
1964年、邦子34歳、N氏47歳……秘めた恋の突然の終わり。
「夕方、邦子来る。久しぶりで二人で夕食:さしみ、しいたけ、ウインナ、ひじき、おから、サラダ、大根みそ汁、ビールもうまかった。これで足さえよければと愚痴が出る。ああもう一年たってしまった。つくづく情けなくなってしまう。邦子、少しうたたねして11時帰って行く。」N氏の日記は自殺する前日で終わっている。茶封筒は、N氏の死後、彼の母親が邦子に託したものだった。
40年前の今日8月22日、台湾で航空機墜落事故。その飛行機に邦子は乗っていた。皮肉にも、事故の三ヶ月前『ヒコーキ』と題したエッセイで書いている。
《私はいまでも離着陸のときは平静ではいられない。一週間に一度は飛行機のお世話になっていながら、まだ気を許してはいない。散らかった部屋や抽斗のなかを片づけてから乗ろうと思うのだが、万一のことがあったとき、「やっぱりムシが知らせたんだね」などと言われそうで、ここは縁起をかついでそのままにしておこうと、わざと汚いままで旅行に出たりしている。》
50年前の” 秘め事 ”は、彼の死後、作家・向田邦子に沢山の切なくあたたかい文章を書かせた。恋文の主達は、今頃天国でお刺身にビールで昔話をしているかもしれない。晴れて二人で手をつなぎ、散歩をしているかもしれない。
昨夜、大切な人の訃報があった。「『ワルツ』は天使のお仕事……」と言ってくれた貴女を忘れません。