📖美学No. 48《歳時記》

By waltzblog No comments

俳句を作っていた時期がある。友人のお母様が主宰する俳句結社が東京に支部を作ることになり、支部長を引き受けてしまったのだ。初心者の私がまず手に取ったのが歳時記である。俳句に必要な季語が集められ、四季折々の日本古来の年中行事も季節によって分類、解説、例句が記載されている。

木華(木花):冬に霧が氷結して木の枝などにつく霧氷のこと。風花:風に乗ってひらひらと雪片が舞っていること。二つとも冬の季語。何とも美しい見立ての言葉である。こんなに美しい季節の言葉が日本にはある、それだけで感動する。

月に一回、句会は開催された。その日までに一人五句作り、それを無記名で小短冊に書く。全員の句が書かれた用紙を見て、良いと思う句を選句用紙に書き、それを披講者(その日の句会で読み上げて発表する人)が集めて発表する。読み上げられた句の作者は、そこで初めて名乗りを上げる。全員の選句が読み上げられ点数を集計、その日一番の句が決まる。最後に主宰者からの添削や感想を聞いたり、皆でそれぞれの句をディスカッションしたりして句会は終わる。

自句自解、つまり作者がどういう心情でその句を作ったかを話すことがある。そうすると、選句した人が思っていたこととは違う意図もある。「優しい情感があふれ……」と選句者が讃えると「実は……」と、その言葉の奥底にある情念や怨念が語られる。それを客観的に見つめることによって、浄化され、シンプルな優しい表現に辿り着く場合である。だから、俳句は奥が深いというのだろう。

一つの思いがあり、それを言葉に綴るのは、ある意味冷静で客観性がないと作れない。その時の激情を言葉に置き換えようとすると、どうも暴力的になってしまう。雑多な気持ちを整理して削ぎ落とし、静かに見つめる。そういうことが分かるようになったのは、ずいぶん後だった。日本語の五七五の音で作る俳句は、響きも大事だが、表す文字を漢字にするか、ひらがなにするか、カタカナにするかでもイメージは異なる。「女」「おんな」「オンナ」……言葉の絵画のようである。

《冬すみれ百年の蒼いまなざし》覚えている自句。若い頃の気持ちのまま、社会の矛盾を感じながら忙殺される日々を詠んだ。 十七音で自らを振り返ることの出来る俳句、人生終盤からが身に染みてくるのかもしれない。

結社句集の表紙デザインも担当させて頂いた。新年に衣替えする表紙を、1年の計のような気持ちで、来年こそは……と背筋を伸ばして描いた。

 

 

コメントを残す